叶V井商店会社案内
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店舗内おもちゃ販売コーナー
菓子販売コーナー
レジ前カウンター
商品は複数のPOSレジで単品管理をしていますので、お会計の際はほとんどお待たせいたしません。商品の追加や変更、取り消しも瞬時に対処できます。伝票は商品ごとの明細で打ち出されますので、次回ご利用時の資料としても十分にお役に立ちます。
当店は縁日、お祭り用の玩具、駄菓子やおもちゃ、がん具花火などを扱かっている専門の卸問屋です。大正4年(1915)駄菓屋、おもちゃ小売店や露店商相手の卸問屋として埼玉県の川越市内で創業し、現在に至っております。昭和30年の末ごろまではどこの裏通りの横丁でも駄菓子屋の2、3軒はあって、子供たちは駄菓子屋のおじさんおばさんそして一緒に集まったお友達との交流を通して、よく遊び、そこからさまざまな社会勉強をし、成長して行ったわけですが、東京オリンピックを境に日本の高度経済成長がはじまり、物価も高騰して行った結果、低価格低コストでたくさん楽しめるのが身上の駄菓子屋の数が減っていきました。今では駄菓子屋はその使命を終え、過去の存在の様に思われていますが、しかし駄菓子屋で売っている商品は、今後もますます重要な役柄をはたすものと考えております。
駄菓子屋で扱っている商品には
魅力的なものがたくさんあります。
- 価格が安く、20年前と同じ価格の商品もたくさんある。
- 科学や自然の法則を利用した面白いおもちゃが多い。
- 個人ではなくおおぜいで楽しむ商品が多い。
- 素材に近い商品なので利用する人の自由裁量の余地が多く、それが子供の社会性、創造性や応用力の養成に役に立つ。
こうした特徴がありますので、子供時代における生活技術(たとえば工作、金銭感覚、対人関係等の養成)の獲得や、現在希薄になりつつあり、家族や地域社会、各種団体、コミュニテイー内での人間関係のコミュニケーションを促進するに役立つものとして、再認識されつつあります。新しい使命を帯びて駄菓子屋は復活しております。魅力ある商品がたくさんありますので、最近は駄菓子屋さんに加えて、各種団体での、お祭りやイベントとして利用される機会が多くなりました。
当店の営業方針
家族、集団、団体、地域内の人々の間のコミュニケーション促進のお手伝い業と考えておりますので、お客様への各種情報の提供や便宜も十分考慮しています。当店は専門卸問屋ですので、常時3000種類以上の商品を在庫しております。また数量もそろいますので、火急にご来店いただいても、ご購入商品には充分ご満足いただけると思います。またイベント企画が初めての方でも安心して実施できるよう各種イベント企画の解説書もいろいろ用意しています。商品一単位当たりの数量(ロット)はご利用者の便宜を考えて無理無駄のない数量に小分けしてあります。お祭りシーズン(5〜12月)になりますと、埼玉県下をはじめ県外周辺の皆様も多数ご来店いただいております。
主なご利用先
専門の駄菓子屋さんや、露店商さんに加えて最近は幼稚園、保育園、学童保育、小学校、PTA、子供会、自治会、高等学校、専門学校大学学園祭、公民館、児童館、商店会、福祉施設、老人ホーム、病院、企業夏祭り、労働組合、商店企業販売促進イベント用景品等などでご利用される機会が増えています。
ご来店をお待ちしています
川越市内の観光もかねてワゴンでおいでになるグループも多数あります。但し、商品の種類が多いので、軽い気持ちで御来店いただくと商品を決めるのに半日以上かかてしまいます。事前にあるていど購入方針を立てておいでいただくことをお勧め致します。縁日イベントで人気のある商品の一覧表を用意していますのでご利用ください。本当はご来店頂いて納得のお買い物をして頂くのが一番よいと思いますが、どうしてもご来店出来ない方のためには通信販売もいたしております。その詳細は[販売について」ページをご覧ください。
初代店舗は蔵つくり
3軒並んだ蔵づくりの町屋の真ん中が初代の店舗です。狭くなったので手前の店舗に引越しました。住所は川越市鍛冶町(現在の幸町1番地)です。そのあと昭和30年代前半に、この蔵つくりをこわして現代建築の店舗に建て替え、さらに昭和40年代後半に川越の西の郊外の現在地に引っ越しました。現在の店舗は4代目です。この写真は昭和26,7年頃の店舗の前です。このみづらい写真でも当時のことがいろいろわかります。現在の川越は蔵の町として、その中心地の一部が観光地になっていますが、当時は町中に蔵つくりの店舗がありました。店の前の車は四輪車が普及する以前の「マツダのオート三輪車」です。ハンドルはT字型で運転席は座るというより、オートバイのようにまたがった状態で運転します。扉はなく足元には地面が見えます。この車のあとに有名なダイハツのミゼットやスバル360がでてきます。この三輪車の荷台の脇には「キングトリスのガム」というカンバンの文字が見えます。今ではガムといえばロッテと言うことになりますが、その当時の駄菓子屋ではこの会社のものが主流でした。この会社はもうありません。店先に木箱が並んでいます。今の18リットル石油缶を2つ並べて小さくしたようなサイズのもので、通称「リンゴ箱」といいます。当時はまだダンボール箱ではなく、この小箱が梱包ケースの主流です。この写真の時期は正月のようで、このリンゴ箱の中に群馬特産の上州紅独楽が積み込まれています。もちろんパッケージなどはありません。これらの独楽が売り切れたあとこのリンゴ箱は鉈で細かくして風呂の燃料になります。この三輪車の荷台には走行中に商品が飛ばないようにシートをかけてロープで縛ります。荷台も大きくないし、積まれている荷物もそれほど多くはありません。しかしこれを配達して1日の仕事が終わります。この時期のあと駄菓子屋にとっては黄金の昭和30年代、40年代を迎えるわけですが、その嵐の前の落ち着いた時代ということになるのでしょう。 [解説日本の駄菓子屋の歴史]